· 

その日暮らしの文化も あり   

 松田 昇

 

 誰もが知っているアリとキリギリスという寓話は、冬に備えて暑い夏の日もせっせと働いたアリは立派で、何も考えず遊びほうけていたキリギリスのようにならないようにしましょうという教訓を現代人に伝えてきた。この話には別のパターンの帰結もあるようだが、先(将来)を見通して今を生きるべしという価値観は普遍のものだと私は信じてきた。

 ところが世界を見渡すと、Living for Today ―その日その日を生きる―の社会が一般的だという話は目から鱗だった。(「その日暮らしの人類学」小川さやか、光文社新書)

 たとえばアフリカ東部のある農耕民族は、できるだけ少ない努力で暮らしを成り立たせようとしているという。集落の住民が食べられるだけの食糧しか生産しない。にもかかわらず、集落を訪れる客人をもてなすために、生産した食糧の40%近くも分け与える。しかし自分たちもほかの集落に旅に出かけ、もてなしを受けるため、通常は帳消しになる。

  これは、貧しい暮らしの中でみんなで支え合うという美徳でもなければ、要領よく世間を渡る怠け者の知恵でもない。「何とかなる」と、未来に思い悩まず「自然」のリズムでまったりと暮らしながら、いざというときは何とか切り抜ける「暮らし方」なのである。

  そしてこれは都市部でもそうであるという。都市部の経済活動や生活もまたLiving for Todayなのだという。そこでは路上商売や零細製造業、日雇い労働などの職種を渡り歩く人々こそが、社会経済の主流派を形成している。公務員やサラリーマンなどの定職につく人はごくわずかである。

 未来のために現在を生きることに追われている我々の社会から見ると、そうした生き方は果てしない不安をかき立てる。その日暮らしというのは、何かレールを踏み外した失敗した人生のようなイメージを持ってしまう。ところが、同じ資本主義経済であっても、その成り立ちや風土がまったく違う世界ではLiving for Todayが当たり前で、そこには私たちの社会とは違う豊かさがあると人類学者は言う。

 障がいのある子の教育に関わってきて、学校卒業後の就労や「自立」に少しでもつながることが第一という大前提にいつも違和感を感じてきた。同様に、地域の学校を選択した、あるいはしようとしている障がいのある子とその親に対して「今のうちに手厚い教育の中で力をつけておいた方がいい」と、そういう考えがあたかも一般的であると言わんばかりに投げかけられることにも、疑問を持ってきた。障がいのある子はいつも、将来のために今を生きることを勧められ、強いられてきた。その裏返しとして、自分のことは自分でするという意味での「自立」に、どう見てもつながらない寝たきりの障がいの重い人たちの毎日を見て「生きる意味がない」と言わせてしまうものがある。相模原の事件を起こした人物が特別だと言い切れないのがそこである。

 毎日精一杯(時には手を抜きながら)生きている延長線上に未来はある。今を豊かに生きることが将来も豊かに生きることにつながる、と考える方が私にはしっくりくる。