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共生を肌身で感じる社会へ 

 松田 昇

 

 某レンタルビデオショップで、「毎週金曜日60才以上の方は旧作無料」というキャンペーンをやっている。「無料」という言葉に心動かされて、毎週金曜日に通っている。借りるのは海外ドラマのSFやサスペンスだ。その中で「アルファ」というのが興味深かった。特殊な能力を持った人たちのことを「アルファ」と呼び、アルファのチームが事件を解決していくというものだ。そのアルファの中に自閉症の青年がいて、空中を飛び交うネットの情報を捕まえることができるという能力を持つ。その能力の設定はともかく、自閉症の演じ方がとてもいい。英語の台詞のことは分からないが、吹き替えの日本語の声優さんも、自閉症の人の話し方を、実にうまく演じている。ダスティン・ホフマンの「レインマン」も話題になったが、こちらも遜色ない。

 欧米のドラマには、障がい者が出てくることが多い。「モンク」「ハウス」などでは主役として登場するが、障がい者というより、強い個性の人として描かれている。他の作品でも、主役ではないが重要人物として、あるいは一回きりの役で登場することがある。日本のドラマや映画での障がい者の描かれ方や登場の仕方と、何か違うものを感じる。この違いは何なのかということを、ずっと考えている。

  どういう表現がぴったりくるのだろうと考えていて、ふと「遠慮なく出てくる」というのが近いかなと思った。欧米のドラマでは、障がい者が遠慮なく出てくるし、製作側も遠慮なく登場させている。

 たとえば「アルファ」の自閉症の青年は、その言動でまわりの人との間に摩擦や行き違いを起こす。そのことは、日本でも同様である。違いは、そんなことがあっても、それに関係なくドラマは次々と進行していくということである。彼が内緒にしておきたい話を堂々とバラしてしまっても。

 描かれ方というのは、社会の中において障がい者というのはどういう存在なのかということを反映する。「遠慮なく登場する」ということは、欧米社会において障がい者は「遠慮なく存在する」ということになる。もちろんそうでない国や地域もあるだろうが、少なくともドラマの背景となっている地域ではそうなのだろう。障がい者と健常者との共生が、あえてそういう言葉を使わなくても当たり前になっている、肌身で感じる生活がそうなんだと、行ったこともない人間の想像である。

  一方、日本の映画やドラマの中での障がい者の存在は、遠慮がちというよりも、特別な人として描かれ、他の人との間に距離を感じてしまう。「障がいがあるのにこんなに頑張っている」という取り上げられ方は、まさにその典型である。

 障がいを個性としてとらえるとか、障がい者が当たり前に地域で生きるとか、私も含めてよく使うフレーズがある。そんな言葉を使いながら、言葉だけが浮いているように感じることがある。障がい者との共生を肌身で感じる社会で毎日を生活していれば、ぴたっと感じるのかもしれない。私たちの街が共生の街となっていくためには、一つひとつの共生の事実を積み重ねていくことが重要な気がする。