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人の生に対する敬意    

松田 昇

 

 あるお通夜で「お釈迦様は尊い人とされていますが、どうして尊いかというと、人々に敬われるから尊いのであります」という法話を聞いた。これでは答えになっていないと最初は思った。
 しかし法話が進むにつれて、なんとなくそうかと思うようになってきた。尊い存在かどうかは、その人がどういう人であるかよりも、敬意を払われることでそうなっていくということだった。
 話が、津久井やまゆり園での事件に及んだとき胸にストンと落ちた。人として生を受けてきたことに対する敬意が、その命に重みを持たせる。障がいがあってもなくても、ましてやその障がいの重さの程度に関係なく、周りの人が敬意を持つから人としての尊い命が輝く。その命を軽んじた植松という人は、彼ら、彼女らに対する敬意がなかったのだろう。
  人の命が最も軽んじられるのは戦場だろう。子どものころ興味を持った日本の戦国時代。信長や秀吉の時代の物語の中に必ず出てくる戦(いくさ)の数々。いつも思っていたのは、武将の駒の一つとして戦に臨み亡くなっていった人々にも、奥さんや子どもなど家族がいたであろうに、その死がこんなに簡単に描かれているということだった。おとなになって、実際にそういう場面ではわれ先にと逃げ出すんだと知ったが、映像としてはそれは面白くないのだろう、バタバタと人が倒れていくシーンが記憶として残っている。
 さらに、体中に矢が突き刺ささりここで討ち死にと分かった武将が、敵陣の中に突っ込んでいき、何人かを倒し、そして果てていく場面。小説なのかドラマなのかは覚えていないが、それが英雄の最期なんだといわんばかりである。その時道連れにされた人の命の扱われ方の軽さを思うようになったのは、恥ずかしながらこうしたことを考えるようになってからである。
  「国境なき医師団」の活動で戦地に派遣された看護師さんが書いた本を読んだ。(「紛争地の看護師」白川優子 小学館)
 空爆で両足の骨が砕け二度と歩けなくなった17歳の少女はすっかりふさぎ込み、筆者が声をかけ手を握っても反応はなかった。それでも声をかけ手を握り続けることしかできなかった。その地を離れる前日に写真を撮ったとき、初めて笑顔を見せてくれた。集団で運ばれてくる患者の中の一人だったが、それぞれ名前があり、それぞれの人生の歴史があることを心に留め、日々接することを心がけてきた中でのできごとである。
「人間の欲をまとう、たった一発の爆弾がニュースにもならない場所で悲しみを蔓延させている。この空爆をやめてほしい。武器の生産をやめてほしい。誰に言えば伝わる?どこに発信すれば届く?何回言えばよいのだ?」
 戦地だからこそ、一人ひとりの生に敬意を払い毎日を過ごしてきた人のことばは重い。