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「きっちり」していることと「いい加減」であること

松田 昇

 もう50年ほど前のことになるが、高校1年の生物の授業でDNAと遺伝の仕組みを習ったとき、そこが私の人生の分岐点の一つとなっている。A(アデニン)G(グアシル)C(シトシン)T(チミン)という4種類の塩基の延々たる並びのDNAが、コピーされて親から子に受け継がれ、ヒトはヒトに、サルはサルに間違いなくなっていくという。今で言えば、0か1の数値の並びがコンピューターをはじめとするいろいろな機械を間違いなく動かしていることに似ている。まだデジタルという言葉になじみのなかった時代、ヒトをはじめとする生物の姿形をはじめ、その生物たらしめているものがわずか4種類の文字の並びで説明されるということが、たいへん興味深かった。それで大学は理学部の生物学科を選び、分子生物学をかじった。

 ところが最近学び直すと、AGTCの4文字が多少間違ってコピーされたぐらいでは、その生命体に対して大きな影響が出るわけではないという。こうしたシステムのことをロバストというらしい。ある意味「いい加減」ということである。地球上の生命は、もともとロバストなシステムだから進化をしてきた。これに対して0か1(黒か白とも言える)の並びが、1か所でも間違うと機械が止まってしまうシステムをフラジャイルという。フラジャイルなシステムは、「きっちり」していて、機械に正確に動いてもらうためにはなくてはならない。

  現代社会はデジタルな機械に囲まれ、それがなくては生きていけないようになってしまった。それに浸りきり、思考までもが、黒か白かはっきりさせないと落ち着かないという人が多くいる。アメリカの前大統領もそうだった。結果として国民を、自分を支持するものとしないものに分断してしまった。

 動物学者で前京都大学総長の山極寿一氏は「黒でもあり、白でもある」あるいは「黒でも白でもない」ということが受け入れられるようになれば、もっといろいろなことが楽になるという。例えば、人の判断や決断は10割こうだと思ってくだすことはあまりない。場合によっては6対4ぐらいの割合で決めたのかもしれない。右と決めていても、左という思いもある程度あったということに思いをはせると、考え方が違うといって相手を排除せずにすむ。世界に、対立する関係が増えてきて息苦しくなってきいる。何とか「いい加減」で収めてほしいものだ。