· 

超トリアージ

松田 昇

 今回は、重くて結論のない話である。コロナ禍の中で医療体制がひっ迫したイタリアで、数少ないICUのベッドに空きができたとき、次に誰を入れるか現場の医師たちは選択を迫られたという。この苦渋の選択を迫られた医師たちの心理的負担はとても大きかったという。誰に生きる可能性を残すか、最前線で体をはっている医師たちの時間のない中での判断を誰も責めることはできない。

 このニュースを聞いて、ハーバード大学の政治哲学者マイケル・サンデル教授の「正義」についての講義につながった。テレビで放送もあったし本にもなっているが、氏は学生たちに対してこう問いかける。「自分が電車の運転手だとして、ブレーキの故障した電車を運転しており、しかも行く手の線路上に5人の作業員が働いているとする。このまま直進すればその5人の命を奪うことになる。だが気がつくと右側に待避線が見え、そちらにもの一人の作業員が線路上で働いている。幸いハンドルは効くので、その線路に入ることも可能である。その時に直進するのが正しいのか、右へ曲がるのが正しいのか、運転手である君はどうするのか・・・」

 架空の設定だからさまざまの意見が飛び交い、学生たちは選択の根拠を問われ、考えを深めていく。もちろん正解はない。しかし、判断や行為の論理的正当性は議論されなければならないと氏は説く。

 津久井やまゆり園事件を思い起こす。「重度の障害者には生きる価値がないから殺した」という被告の論理は正当性に欠く。生きる価値がある人とない人の線引きをどこにするかということではなく、そもそも生きる価値のある、ないを論じることが正当性を欠く。

 だからコロナ禍の中で治療に優先順位をつけなければならない医師たちは悩むのだろう。災害や事故の救急現場におけるトリアージとはまた違う選択の基準に、論理的正当性を持たせることなどできないからだ。

 

 自分が患者になったときのことを想像する。ICUのベッドが空いたとき、となりの患者に「お宅、お先にどうぞ」と言えるのは、どんなときなのだろうか。